エッセイ


第1回 坂本真司(2021/09 通信No.33)

レヴィ=ストロースは、マルクスの本を適当に開き、数ページ読んでから原稿に向かった。そんなことをかつて内田樹さんのブログで知りました。マルクスの文章でスイッチがはいる、ということなんでしょうね。

 

私は時々、ある本の表紙を眺めてエンジンをかけます。J.C.スコットのThe Moral Economy of the Peasant。ペーパーバック版ですが、ハードカバー版と同デザインのもの(古い方?)です。一見どうってことない表紙です。稲穂のイラストがあります。ですがそれは黒で描かれていて、あんまり実り豊かに映らない。タイトル文字は赤、血の色です。

 

この表紙を見ると、バングラデシュの田んぼ、藁の山を思い浮かべます。夕方です。藁の匂いが心地よいです。すると、「こんなところまで来ちゃった。ここまで来ちゃったから、投げ出さないで頑張ろっか」って気持ちになります。軽トラ並みの小さなエンジンがかかり、ゆっくり回りだします。

 

時々のご縁の連続で、研究者の端くれを続けてこれました。自分で切り開くというより、人から誘われ、乞われ、求められるのに応じながら、今に至ります。研究所も、10年前に石岡さん(面識なかったんです)から、今はなきアジア社会学研究会のお誘いをもらい、フラフラやってきたのが最初です。皆さんは、動研との出会いはどんな風でしたか。

 

第02回 中筋直哉(2021/10 通信No.34)

2021年の東京オリンピック閉幕の折小熊英二氏が朝日新聞に寄稿した記事を見て、おやっと思った(朝日新聞8月10日朝刊)。冒頭彼は宣言する。この事実を歴史的に考えたい、と。「歴史的に考える」とは何だろう。

 

小熊氏にとって、1964年の東京オリンピックと対比したり重ね合わせたりするのが「歴史的に考える」ことのようだ。それぞれの経過だけでなく背景となる経緯も含めて考察していく手さばきは、歴史社会学の第一人者の面目躍如たるものだ。しかし、私が触発されたのは小熊氏の考察そのものではなく、「歴史的に考える」という思考の意味である。マルクス主義者ではない私たちは、一般論としても社会学としてもつねに「歴史的に考え」なくてもよい。でも、何かに導かれるように「歴史的に考え」てしまうことはないだろうか。

 

最近2013年のドイツ映画『帰ってきたヒトラー』(ダーヴィト・ヴネント監督、原題は『彼が帰ってきた』)を見た。ベストセラー小説の映画化で、突然現代に蘇った総統が再びドイツ人たちの支持を集めていく物語である。実物より恰幅のよい俳優が演じる総統は生前そのままの身ぶりと言葉で現代のドイツ人たちを魅了していく。私は、この映画を見たドイツ人たちは、映像の中のドイツ人たちと一緒に自分たちの現在を「歴史的に考え」ざるを得ない状況に追い込まれるのではないだろうか、と考えた。私たちの内なる総統、ではなく総統につながる私たちの言葉と感情について。そしてそのつながりを断ち切っていく方法について。

 

「歴史的に考え」させられたテクストをもう1つ思い出した。最近完結した『ペリリュー・楽園のゲルニカ』(武田一義、白泉社)というマンガである(最初の方しか読んでいません)。マスコット人形風の日本兵たちが史実通り凄惨に玉砕していくさまが細密に描かれる。しかし日本兵たちの心理は、かつての戦争映画や水木しげるのマンガが描いたようにではなく、現代の若者たちのそれのように描かれている。それを読む私もまた私たちの現在を「歴史的に考え」ざるを得ない。私たちの内なる日本兵、ではなく日本兵につながる私たちの言葉と感情について。そしてそのつながりを断ち切っていく方法について。

 

「歴史的に考える」ことが底の知れない厄介な(ウンハイムリッヒな)作業であることは確かだろう。これ以上深掘りできる自信はないが、折に触れて挑戦していきたい。

 

第03回 朴沙羅(2021/11 通信No.35)

ヘルシンキ大学で教えることになってから1年半ほど経ちました。あらゆることの違うに驚く日々が続きますが、そのうちの1つは、こちらにいると自分がひどく年寄りになったように感じることです。2020年にフィンランドの全人口に占める65歳以上の割合は22.5%(World Bank発表)で、日本の28.4%(同発表)とそれほど大きく変わるわけではありませんが、ニュースや新聞で見かける人々が20代後半から30代と、私と同世代かもっと若い方が多いように感じるからでしょう。2019年に社民党のサンナ・マリンが首相になったときは世界で最も若い首相が誕生したと言われましたが、2021年9月現在、副首相のアンニカ ・サーリッコ(中央党)は38歳、内務大臣マリア・オヒサロ(緑の党)は36歳、教育大臣リー・アンダーソン(左派連合)と科学文化大臣のアンッティ・クルヴィネン(中央党)は35歳と、閣僚のおおよそ半数は30代です。先日、フィンランドでは初めて難民のバックグラウンドを持つ国会議員スルダーン・サイード・アフメド(左派連合)が誕生しましたが、彼は1993年生まれです。

 

おそらく、社民党や緑の党、左派連合や中央党と言った中道から左派の諸政党が、若い世代を取り込む仕組みを持ちうまく運用しているということなのだろうと思うのですが、何も調べていないので揣摩憶測に過ぎません。そのうち、どこかの政党のリクルーティングの内情を調査してみたいものですが、その前にフィンランド語を身につけないと何もできません。また将来の自分に宿題を出してしまった、と思いつつ、私にとっては毎日が不思議の国のフィールドワークです。

 

第04回 粟谷佳司(2021/12 通信No.36)

私のこの10年の研究テーマは、鶴見俊輔の大衆文化に関する思想と関西フォークソング運動を歴史・文化社会学の観点から考察するというものである。今回は、関西フォークソング運動について述べたい。

 

1960年代後半の日本においてフォークソングを運動として捉えていたのが詩人の片桐ユズルの活動だった。片桐の活動から見えてくるのが、素人の活動と市民運動に関わる表現の問題である。片桐はフォークソングについて記述するときに、鶴見俊輔の限界芸術論を始めマーシャル・マクルーハンらの議論を応用しながらフォークソングを捉えているのである。ここから浮かび上がるのが、鶴見の議論からはフォークソングが素人が行う音楽活動であるということであり、そしてマクルーハンの議論についてはメディアとライブ演奏の関係に応用されているのである。ここで片桐は、マクルーハンを応用しながらレコードやラジオがホットなメディアであるということから、フォークソング運動における街頭の演奏をクールであると述べ、街頭で歌われること、すなわち新宿駅西口広場における東京フォーク・ゲリラの活動に見られる歌うことによる通行人の参加をどう捉えるのかということが言及されているのであった。あるいは、片桐は別のところでもフォーク・ゲリラの替え歌の戦略から歌における歌詞の問題について考察しており、替え歌をフォークソング運動の特徴の一つと捉えていたのである。

 

また、片桐が著したフォークソング運動の歴史についての論考や、片桐が関わっていた雑誌(『フォーク・リポート』など)やミニコミ(『かわら版』)、市民運動関係(『ベ平連ニュース』など)の資料と、フォーク歌手の演奏の音源などの分析から、フォークソング運動が複合的なメディアや実践によって構成された領域であることも分かった。現在は、フォークソング運動の総体的な理解のためにさらに研究を進めている。

 

そして、このような運動の領域について、社会学者のハワード・S・ベッカーのいう「アート・ワールド」論を応用して分析を行っている。研究では、ベッカーを中心にシンボリック相互作用論や社会的世界論の議論から、運動に関係するひとびとの連携した行為によって構築された空間をどのように捉えるのかということを課題としている。また、片桐をキー・パーソンとして、その活動がフォークソングの運動に言説と実践において重要な役割を果たしていたということを明らかにする研究を行っている。考えてみれば、すでに最初に刊行した著書(『音楽空間の社会学』青弓社、2008年)の研究においても、震災復興における音楽の空間が関係するひとびとの連携した行為からいかに構築されていたのかということがテーマだった。

 

これからは、理論的な研究と文献・資料の分析をさらに進めて、フォークソング運動という空間がいかに社会学の方法から捉えられるかを研究していきたいと考えている。

 

第05回 丸山里美(2022/01 通信No.37)

12月のはじめ、元野宿者の女性から電話があった。彼女は、タマコさんとして拙著『女性ホームレスとして生きる〈増補新装版〉2021年』に登場する女性で、現在55歳。私が大学院生だった2000年代前半、東京の公園で野宿生活をしているときに知り合ったのだった。彼女のテントに泊めてもらったこともある。そしてその後20年近くが経つ現在まで交流を続けてきた。

 

タマコさんには軽度の知的障害がある。そのため両親は彼女の生活にさまざまに干渉し、それを窮屈に感じたタマコさんは20代から家出を繰り返すようになった。そしてその最中に知り合った男性と、野宿生活をすることになったのだった。その男性は、覚せい剤使用の罪で何度も刑務所に入ったことがある元やくざだったが、親分肌の彼は、25歳以上年下のタマコさんの保護者のようでもあり、二人はいい組み合わせだった。

 

3年ほど野宿生活を続けた後、2人は生活保護を受給し、古いアパートで暮らすようになった。ミシミシいう急な階段をあがった先にあるその部屋は、6畳1間に3畳ほどのキッチンとお風呂がついている。そこで2人は、病気で体調を崩すこともあったが、毎日散歩を欠かさず、15年ほど穏やかな暮らしを続けていた。

 

80代になった夫は入退院を繰り返すようになり、昨年11月に入院した際に、もう先は長くなく、家には戻れないだろうと告げられた。コロナ禍で面会はできず、もう会うこともできないとタマコさんはいう。残された彼女が一人暮らしをしていくことは難しいとケースワーカーは判断し、タマコさんは東京近郊にある80代の両親が暮らす実家に、30年ぶりに帰ることになった。必要なものをダンボール1箱に詰め、家の処理はケースワーカーに任せて、彼女は1人で家をあとにした。

 

実家に戻ったタマコさんは、高齢の両親に申し訳なくて居づらい、一人暮らしはできないと周囲がいうので、あとは施設に入るしかないという。ケースワーカーに早く施設を探してほしいと伝えているというが、両親の元で生活保護はいったん打ち切りになった彼女の行く先が、すぐに見つかる可能性は低いように思われた。両親が亡くなったりすれば、そのときはまた福祉事務所に相談してほしいということだろう。

 

そう考えれば、タマコさんと夫が2人して、つつましやかでも支え合って過ごしてきたアパートでの15年間は、支援制度としてはなんと安上がりだっただろうと思う。タマコさんのこれからが穏やかなものであることを、ただ願うばかりである。

 

第06回 室田大樹(2022/02 通信No.38)

炊き出しで人民の飯を作るか、家で家族の飯を作るか。

 

公園で野宿のおっちゃんと語らうか、子どもと砂場でお山を作るのか。

 

――3年前に上の子(2歳)が産まれてから、越冬闘争を含めてすっかり現場から足が遠のいてしまった。寒空の下に段ボールでロケットを作り、薄っぺらな毛布を何重にも重ねて眠る人々の存在が時々頭をよぎる。しかしそれは文字通り時々のことでしかなく、下の子(0歳)のおっぱいを求める泣き声や、つられて目覚める上の子の「水飲む」「布団かけて」といった要求で深夜に起こされはするものの、天気の心配なく暖かい寝床で眠る毎日が続いている。時間のやりくりがうまくいかず、というより絶対的に自分の時間が少なくなってしまった現状において、仕事とちょっとした息抜き以外の自分時間を作るのが大変難しい。「仕事行ってきます」というふうに、連れ合いに育児や家事をお願いすれば簡単なことなのだけれども、フェミニストとしては後ろめたさが湧いてきて仕方がない。社会運動に参加することや野宿者支援に参加することの社会的意義を高らかに語ることは簡単だが、それが連れ合いの負担を増やしたり、自分時間を減らしたりすることによってしか成り立たないのだとしたら、足元の正義が揺らいでしまっている。

 

野宿者の支援か、子どものケアかという二択(ある程度の自分時間を確保することはお許しいただきたい)に追い込まれてしまっているが、もっと制度がしっかりしてくれていればと率直に感じる。制度的な支援がほしいと思って気づかされたことがある。制度が整っているとは、個々のニーズにあったきめ細かな制度の有無のみを指すのではなく、制度を必要としている人々が“自ら助けてと声を上げずとも”適切な制度につながることができることを指すのだろう。当事者が支援につながるまでのハードルの高さについて分かっていたつもりだったが、誰にどのように声を上げればいいのか、他の人たちはがんばっているではないか、この程度の困りごとで助けてと言っていいのか(と自問自答して結局何とかなるだろうと日々やり過ごしていく)、制度に乗るには何かをあきらめなければならないのだろうな(例えば保育園に子を入れるには保育に欠ける事由が必要、まさに、働かざる者は預けるべからず)、という悶々とした思いが自分を動けなくする。だから、声を上げなくても無条件な制度を届けてほしいのが正直なところである。もちろん、パターナリスティックな支援や、国家によるよい人物像や家族像の押し付けはまっぴらごめんであるが。

 

かつて生活保護を受けながら野宿者支援・運動に携わっていた活動家は当時のことを次のように総括した、「俺たちの活動が行政の不作為を補っているわけだから、保護費はいわば給料だな」。「今日はオリンピックに反対するデモがありまして」「でしたら本日の保育料は無料です、私の分まで声をあげてきてくださいね!」「ありがとうございます。たしか来月、厚労省前で保育士の待遇改善行動ですよね?我が家も家族で参加します」くらいの社会になってくれないだろうか。

 

第07回 結城翼 (2022/03 通信No.39)

コロナ禍の中で感じた山谷の「しぶとさ」

 

筆者が三大寄せ場の一つと言われている山谷地域に始めて足を運んだのは2013年の秋で、今に至るまで野宿者運動に関わってきている。当時、すでに山谷から仕事に行く人はほとんどいない状態で、誰かに「山谷はもう日雇労働者の街じゃない」とも言われた。確かに、今や日雇労働で生計を立てている人は少数派になっている。しかし、多くの変化を経験しながらも「山谷」という街は未だに存続している。少なくともこの名前は現在も意味のある地名として一部の人びとの生活の中にリアリティをもって存在している。

 

2000年代以降、山谷は「福祉の街」化したと言われ、最近ではドヤに住む人の9割以上は生活保護利用者になっている。その後、コロナ禍が始まる前まで山谷はさらに別の方向で変化していた。第1に、一部のドヤはバックパッカーやビジネス客向けに改装されたり、新設されてきた。観光地にも都心にもアクセスがよい立地ならではだろう。台東区も改装・改築の助成制度を設立しこの流れを促進しようとしてきた。第2に、都心での再開発と「都心回帰」の波に乗じて山谷でもマンションが相次いで建設されていき、山谷の地名すら知らないであろう人々が移り住み始めてきた。いわゆる「ジェントリフィケーション」が進展する中で、このままでは生活保護利用者も野宿者も住む場所を徐々に失っていくのではないかと懸念する人もいる。

 

他方で、筆者がコロナ禍の中で改めて感じたのは山谷という街の「しぶとさ(robustness)」のようなものである。マンション建設が中断ないし延期され、バックパッカー向けのドヤが倒産したりする一方で、生活保護利用者を受け入れているドヤは引き続き宿のない人々にとっての寄る辺として機能しており、城北労働・福祉センターの運用やワクチン接種などをめぐって、野宿者運動はここ数年で例を見ないほど活発に展開している。これは、一面では地域に根差した地道な支援活動や社会運動が行われてきたことの反映であろうし、また他面ではこの街を離れることが出来る者とそうでない者の格差の現れの一つとも言えるかもしれない。いずれにせよ、コロナ禍の中で山谷の都市下層の街としての側面の頑強さが示されているのではないかと感じている。

 

もちろん、コロナ禍がいつ収束するにしても、再開発の波は途絶えるわけではないだろう。実際、筆者が関わっている現場では周辺に続々とマンションが建っていき、立ち退きの圧力(displacement pressure)を感じている野宿者もいる。今後、野宿者や生活保護利用者の生活により実際的な影響が及ぶことも予想される。楽観視などできないが、ある種の「しぶとさ」を持つ「山谷」が今後どのように内外の変化と折り合いをつけていくのか、筆者は引き続き現場から見ていきたいと考えている。

 

第08回 山北輝裕(2022/04 通信No.40)

コロナ禍以前は、ホームレス状態を経験した方達へのインタビューを重ねていました。アパートに移られてから、どのような生活をおくられているのか、お話を聞かせてもらったりしていました。コロナ禍になってから、「基礎疾患がある人たちばかりだしな・・・うつしたらシャレにならんな・・・」などと思いつつ、校務やら授業づくりやらの言い訳もあり結局まるまる2年ほどインタビューは自粛しました。振り返れば、世のサプライチェーンのように「途切れたなぁ」と、ぼう然としていますが、かといって、積極的に「現場」に行ったのかといえば、ホームレス状態の方たちに対するワクチン接種状況を支援団体が調べた「ワクチンアンケート」に協力したくらいしかなく、「焦り」や「うしろめたさ」がなかったかといえば嘘になりますが、ともかく、このエッセイを書いている春休み、ふと久しぶりにインタビューの再開とまではいわないにしろ、途絶えた人と再会したいと思い立ち、電話をしてみました。その方は58歳で、いまは地方のグループホームで暮らされているのですが、電話先の声ははつらつとしていて、ずいぶんお元気そうでした。お会いしてコロナ禍での不義理を謝るとともに再会を喜び合いました。以前お話を聞かせてらもったことを将来的に原稿にしたい旨を伝えていたときでした。「教授もいちどは野宿したり、ここ(グループホーム)で生活してみたりしてからじゃないと。そこからだよ書くのは」と、そんな感じの台詞を投げかけられました。「あはは」と苦笑いしたり、かつてはそんなことをしたりもしましたと言ってみたり、もういちどなぜそういったことを書くのかフガフガと必死で伝えてみたり。最終的には「(自分のことが本になるなんて)嬉しいやら恥ずかしいやら」「教授が一生懸命考えたんだったらね、書いたらいいんじゃないの」と言ってもらえたものの・・・。クロポトキンの「若い人たちへ」の「ノー、千度でもノー」がリフレインする今日この頃です。

 

第09回 原口 剛(2022/05 通信No.41)

昨年、釜ヶ崎にくらす労働者・活動家のSさんに、計6回のインタビューをおこないました。Sさんがはじめて釜ヶ崎をおとずれたのは、50年前の1972年7月のこと。それ以降Sさんは、釜ヶ崎や山谷、名古屋の笹島で労働し、活動してきました。その人生と闘争史について、語っていただいたのでした。

 

なかでも感銘を受けたのは、次のエピソードです。1973年2月、船本洲治が「反入管釜ヶ崎通信」を発行しました。その文章に感銘を受けたSさんは、朝鮮語に関心を抱くようになり、あいりん総合センターのうえに建つ市営萩之茶屋住宅の一室で開催された朝鮮語学習会に加わるなどします。やがてSさんは、朝鮮労働党出版社が1968年に出版した『抗日パルチザン参加者たちの回想記』と出会いました。その翻訳の一部は、71年に未来社より『朝鮮人民の自由と解放――1930年代の抗日武装闘争の記録』として出版されていました。Sさんはこの翻訳を読んで、心をわしづかみにされたといいます。そして、原著の全12冊を手に入れて、翻訳に着手したのでした。

 

1977年1月、ドヤの狭い一室で、Sさんの翻訳作業が始まりました。「証言集」ですから、草木の名前や方言まで調べようと思えば、作業は膨大です。Sさんがひととおり翻訳を終えたのは、2000年代のことでした。それまでのあいだ、各地を流転する労働と生活のなかで、原著12巻と翻訳ノートだけは、肌身離さず持ち運んだのだといいます。手書きの文字がびっしり書かれた、数十冊の翻訳ノートを目の当たりにして、深く心を打たれました。私にとってそれらのノートは、学ぶこと、研究することの喜びを思い起こさせてくれるものでした。大学や学問の状況は先行きが暗くなるばかりですが、なにがあろうと研究することの自由と喜びだけは手放すまいと、あらためて心に誓いました。

友人たちの協力を得て、どうにかSさんの翻訳とライフヒストリーを刊行・公開する目途がたちました。今年の夏までには、お知らせできる予定です。どうぞご期待ください。

 

第10回 渡辺拓也(2022/06 通信No.42)

エスノグラフィーとは、きっと中身のない言葉なのだと思う。誰でも自分の作品について、エスノグラフィーを名乗ろうと思えば名乗れるし、名乗ったからといって何の意味もない。名乗った作品が大したものなら、エスノグラフィーの傑作としてもてはやされるだろうが、それはエスノグラフィーが何か良いものであることを保証するわけではない。それでも、何らかの理想を実現しようという気持ちが投影されるのがエスノグラフィーという言葉であるなら、名乗りたい人に名乗らせておくだけの価値はあるだろう。

 

その上で、自分にとってのエスノグラフィーの理想が何なのかと考えると、それは、事実をあるがままに描くことによって、社会構造や社会的なメカニズムを明らかにしてしまうような作品なのだと思う。理論や分析枠組みがあってはじめて明らかにされるような秘められた真理、操作的に導き出され発見される真理ではなく、当たり前の暮らしの中にあって、誰もが知っているのに語り得ないことを真理として語ったものがエスノグラフィーと呼ばれるものであって欲しい。記録とは真理を宿らせるための依代であり、その一つひとつに意味が溢れていても、記録そのものに意味はない。

 

同じように、ただ社会学をやっていたのでは真理にたどり着くことはできないと思う。なぜなら社会学は小手先の手段に過ぎないからだ。それでも社会学に何か真理が宿るように感じられるのだとすれば、社会学が小手先の手段としての役割を果たしているからなのかもしれない。社会学に魂が宿ることはあるかもしれないが、依代に魂があるわけではない。どのような道をたどり、どのような場所にたどり着くのかは、選べないのかもしれない。しかし、どんな権威にも、決まりごとにもとらわれずにその道を歩めるのなら、それが人間における自由なのだと言ってもいいのだと思う。

 

第11回 稲月 正(2022/07 通信No.43)

毎週木曜日、自主夜間中学校に通っています。この学校の母体は、1994年に何人かの仲間たちと始めた識字教室です。当初は在日朝鮮人高齢女性がほとんどでしたが、その後、貧困や障がいなど様々な事情で学校に通えなかった人たち、新来・定住外国人など、いろいろな人たちが参加するようになりました。2005年からは市の助成を受けて運営されています。

 

この学校の目的の一つは、公立の夜間中学校の開設でした。ただ、運動を進め市との交渉を続けた方々の努力はあったものの、その実現は難しいままでした。私は、この運動には側面的にしかかかわれませんでしたので、偉そうなことは何も言えません。

 

しかし、長年の全国的な運動による国の動きもあり(2016年、教育機会確保法など)、近年、公立の夜間中学校が各地で開校しています。今年4月、福岡市でも九州初の公立夜間中学「福岡きぼう中学校」が開校しました。先日の朝日新聞(2022.6.26)には、そこに70歳で入学した女性のことが載っていました。彼女は58年前、中学校には入学したものの祖母の介護で授業をちゃんと受けることができなかったとのことです。私たちの識字教室に来られていた方の中にも、きょうだいの世話をしなくてはいけなかったため(兄や弟は学校に行ったのに)、学校に通えなかった方がおられました。自主夜中で出会う多くの方は(炊き出しとは違って)女性です。

 

周知の通り、こうした社会の問題は決して過去のことではありません。昨年、聞き取りをした10代後半のシングルマザーも、精神を病む母と同居していたときは母の世話、母との関係が悪くなり姉と同居を始めた時は姉のこと自分の子の世話で中学校には行っていませんでした。その後、いろいろあってNPOが運営する生活支援付き住宅に入居し、今はアルバイトをしながら子どもを保育園に預けて、通信制の高校に通っています。「高校のことは考えてもいなかった」と話しておられました。

 

公立の夜間中学校をはじめ、さまざまな公的、制度的な支援の拡充が必要であることは言うまでもありません。制度化によって公的な責任は明確になり、運営も安定します。

 

その一方で、自主夜中など、ボランタリーな取り組みも必要です。官によって制度化されると「だれでも参加できる自由さ」は失われがちになります。「成果」を何らかの形で求められれば効率優先による排除も忍び寄ります。

 

要は、選択肢がたくさんあればいいのだと思います。北九州市教育委員会も、公立夜間中学の開設を目指し、有識者会議を設置しました。8月には基本計画案をまとめるとのことです。もし開設されるとすれば2024年頃でしょうか。その年は、私たちの識字教室・自主夜中が始まって30周年です。10周年、20周年のころと比べると高齢化が進み、参加者もずいぶんと少なくなりましたが、「何か記念になるものを残したいね」と話しているところです。

 

第13回 森 啓輔(2022/09 通信NO.45)

STADジャーナルの編集長の声がけで編集委員になり、気がつけば研究所メンバーになっておりました森啓輔と申します。どうぞよろしくお願いいたします。

 

昔から、思ったことは単刀直入に質問する人間だった。あまりその点に関しては悩むことなく、知らないことについて質問することで自分の世界が開けたから上手くいった。学問の道に迷い込んだのも、このような性格が多分に影響していたと思う。

 

大学に入ってからも素晴らしい仲間に恵まれ、ゼミが終わったあとも「カラアゲゼミ」という自主ゼミを組織し、夜中までご飯を食べながら議論したり、映画を見たり、イベントを企画したりした。信頼関係を構築しつつも、その関係性の居心地の良さに甘えず、意見の相違を恐れずに議論したことは財産であった。大学院に「入院」してからもその傾向は変わらず、相変わらず話好きな人々に囲まれながら、色んな分野の人たちと直裁に話しをすることができた。

 

自分を形成してきた半ば自明のコミュニケーショを再考せざるを得なくなったのは、博士課程に入り、権威主義文化がまだ色濃く残っていた日本の学会で報告するようになってからである。そこで単刀直入な質問や議論は、日本の学会文化にはあまり馴染まないことを身をもって知ることになる。

 

他の学者の報告に単刀直入に質問すると、攻撃だと捉えられ、報告後や次の学会で無視されることがままある。実際に謎の難癖をつけてくるおじさんに出会い憤慨した身からすれば、自分もおじさんと同類に見えたのかもしれない。でも、端的に悲しい!!!それはおそらく、権威主義的学会文化においては、自らの立場を保守することが至上命題となり、他の意見を聞く余裕が失われるからだと思った。また、経済的に安定しておらず、目先の査読論文や学会報告に忙殺される博士課程やPDの研究者にとっては、人の意見を客観的に受け入れることさえも難しいことかもしれない。さらには、日本語圏のコミュニケーションが属性と行為を意識的に分離できていないことも、多分に影響していると思われる。疲れる。でもこれが現状だ。

 

社会資本の国際研究を見ると、欧米よりも日本における個人化は進んでいる。研究者コミュニティも同様の個人化傾向を示しているからこそ、そこかしこで新たな研究コミュニティが生まれることは良いことだと思う。しかしその居心地の良さの中で安住し、イエスマンだらけになっても恐い。信頼関係の上に、批判的な関係を構築していければいいと思っている。

 

第14回 玉城 福子(2022/10 通信NO.46)

こんにちは。玉城福子です。私は木下直子さんのお声かけで、社会理論・動態研究所で博士論文の内容を報告する機会を作っていただいたのがきっかけとなり、この刺激的でアットホームな研究所に入所しました。研究者番号をもらえる所属がなかった私としては、その点でもとてもありがたかったです。

 

さて、私は大学院生時代に研究室で脈々と受け継がれていた「貧乏院生ライフハック」と名づけ得るものについて語ってみようと思います。進学した研究室の先輩方はとても面倒見がよく、ご飯をおごってくれたり、レジュメや原稿、学振の申請書まで、書いたものは全て、締切直前であろうと、酷い出来であろうと丁寧にみてくれました。有形無形のものを与えてくれるので、申し訳ない気持ちになり、時々お返しを試みるも「後輩に同じようにしてあげなさい」という言葉とともに贈与論の解説が始まり、お返しは成功しませんでした。もらったものの中でも今でも財産だなと思うものが、先に述べたライフハックです。

 

貧乏院生の最大の敵、それは学費です。日本学生支援機構から奨学金という名の借金を最大限したうえで、アルバイトをしてもなお、生活費と分けて学費を積み立てるのはなかなかに困難でした。そんな時ある先輩がすぐに独立生計者になることを勧めてくれました。親の扶養から外れて、自分で国民健康保険に加入することで、自分の収入のみで判断してもらえます。これで学費の免除が通る確率がぐっと上がります。次に先輩から伝授されたのは、年度末の確定申告。勤労学生として控除が受けられるので、確定申告するとだいたい1万円程度還付金が戻ってきました。慣れるまでは苦労しましたが、今でも役に立っています。その後、私はこのライフハックを研究室内外で経済的に厳しい院生に出会う度に伝えてきました。高すぎる学費や奨学金という問題の根源が解決することが一番ですが、ひとまず生き延びるすべとして大事かなと思ったりします。

 

第15回 打越 正行(2022/11 通信NO.47)

確かさと、おもしろさと、そして正しさと

 

 時々、学生に向けて、研究とはどんな営みかといった仰々しい話をすることがあります。講義は毎週あるのですが、貧乏性ゆえに目の前の学生に伝えることのできるチャンスは最初で最後かもしれないと勝手に自分を追い込み、出し惜しみすることなく、すべてを伝えようと話し続けてしまいます。まくし立てた後に、結局研究で大切なことはなにかといえば、私は「確かさと、おもしろさと、そして正しさ」の3つだと強引にまとめます。これは研究所の理念を、(誤解を含んでいるかもしれませんが)私なりに理解したものです。

 

 まず確かさとは、自身の調査、研究が緻密な社会調査に基づいているということです。

そしておもしろさとは、理論的な新規性、つまりそれが今までに明らかになっておらず、既存の研究を根本からひっくり返すようなダイナミックな研究であるということです。

 

 最後に正しさとは、何のための研究かを自問自答し、自身の問題意識を研ぎ澄ますということです。正しさなんて相対的なものだという方もいますが、私は正しさを放棄してしまった研究者を、どこかで信頼することができないところがあります。あと私は特に正しさから逃れられないということを沖縄で教わったように思います。

 

 私はこのように研究所の理念を理解しています。

 

研究所の外では確かさとおもしろさは問われ、その価値を共有することはできるのですが、問題意識については共有できないことも多いように思います。おそらく、それについては査読の審査基準には入らないし、むしろ入れてはならないものなのかもしれません。だからこそ、確かさとおもしろさを備えた論文が、結果として正しさにこだわった論文であるということが大事になってくるように思います。そろそろ、おまえがやってみせろよと言われそうなので、そちらに向かいます。失礼します。

 

第16回 妻木 進吾(2023/01 通信NO.49)

ぼくは自動化が好きだ。

 

寝ている間にこびとが靴を縫い上げ、朝になると立派な靴ができあがっているというグリム童話の「こびとのくつや」的なものが好きなのである。ロボット掃除機や食器洗い乾燥機、ドラム式洗濯機など、一度セットしておけば、時間はかかるものの、時間が経てばできあがっている。

 

自動化といえば、生ゴミの分解も、アパート住まいのベランダで始めてから15年ほど続けている。調理クズや食べ残しを木箱に入れた土に混ぜ込んでおけば、あとは微生物やアメリカミズアブの幼虫がいつのまにか分解してくれる。ここ数年のお気に入りは、剪定クズ処理の自動化である。とある事情で毎年、大量の剪定クズが発生することになったのだが、これを90センチ四方の木枠ふたつに細かく刻んだ上で放り込んでおくと、驚くほどのスピードで減容していく。シロテンハナムグリの幼虫が大量に、どこからともなくやってきて、木枠からはみ出すほどぎゅうぎゅうに詰め込まれていた剪定クズが、数ヶ月後に見ると僅かな量のサラサラで真っ黒なごま粒状の堆肥に分解されているのである。大幅に減容されたサラサラ堆肥を見ることは、ここ最近の最高の楽しみのひとつである。

 

自動化とはやや異なるが、卒業論文指導においても同様の場面と出会うことがある。

 

「ディズニーランドの顧客満足度の高さは、高い従業員満足度に支えられた最高のサービスにあるのではないか?」といったありきたりの報告をしていた学生が、ゼミでの報告やそこでの議論、授業時間以外のゼミ生とのやりとりを経て、「ディズニーランドのキャストは一人で生活するのがやっとといった程度の安いお金しかもらえないにもかかわらず、なぜゲストに最高の笑顔で最高のサービスを提供できてしまうのか?」へと問いを転換し、ディズニーのキャストらへのインタビューなどを積み重ねて、最終的に「夢の国の住人にかけられた魔法」という、とてもおもしろい卒業論文を完成させたことがあった。指導教員としてのぼくが、手取り足取り指導した訳ではないが、ゼミ生間でのやりとりを経て、問いを転換したり、問いを絞り込んだりしながら、ぼくが気づいた時には、予想を超えるようなおもしろい卒業論文になっているという瞬間にしばしば出会うのである。

 

卒論指導をしていてとてもうれしくなる瞬間であるが、最近はこうした瞬間に出会うことがやや少なくなってきたように思える(もちろん今でもとびきりおもしろいと思える卒論には毎年出会えてはいるのだが)。ゼミ時間外でのゼミ生同士の交流、特に研究にかかわる交流があまりなされなくなっていることによるのかもしれない。コロナ禍の中で、オンライン中心のゼミ指導になったことも影響しているだろう。

 

長々と書いてきて何が言いたいのかというと、20人分の卒論指導を、締切までの1ヶ月半の間、1対1のオンラインで、深夜まで一人ひとり順番におこなうという、自動化とは対極の卒論指導はひどくくたびれたという話です。来年こそはシロテンハナムグリの幼虫が活躍するコンポスター的なゼミにしなければと決意しながら、年末を過ごしています。

 

第17回 木下 直子(2023/02 通信NO.50)

昨年のリレーエッセイで玉城福子さんが書かれていた「貧乏院生ライフハック」なるサバイバル・スキルは、院生に伝授されるべき有意義な内容でした。私は勝手に続編を書きたいと思います。貧乏院生は博士課程を出た後も、引き続き貧乏である可能性が高い。オーバードクター問題にしろ(ポスト)ポスドク問題にしろ、現実はいまだ深刻だと思うのです。

 

私は就職氷河期のほぼ底の時期に大学を出ています。同級生は100社に就職活動して受かりませんでした。早稲田大学を出た友人も就職できませんでした。どちらも女性です。私は面接でハッタリをかまして広告会社に就職、新卒を契約社員でしか採用しない会社でした。社内で成果主義が掲げられ、新自由主義が吹き荒れるひどい時代を経験しました。

 

大学院を目指して退職し、バイトをしながら院試に備えていた時期は、大阪での一人暮らしで月12万か13万円かの収入しかなく、本当に生活が苦しかったです。東京で働く正社員の友人でもこのくらいの手取りだったりしました。そして身の回りには(性)暴力があふれていました。安心も安全もないのです。今のようなワンストップセンターもまだありません。こうしたことが経済的打撃にもなります。私は、早くから常勤職にありつけた優秀な研究者たちの多くは、この厳しさを体験していないと見ています。どうか体を張って、生活困窮者を生み出すシステムを批判し、状況を改善するため共闘していただけないでしょうか。

 

大学院では修士の時も博士の時も日本学生支援機構の奨学金を借り、学内外でのバイトをしていました。独立生計で貧乏なので、学費は半額免除、たまに全額免除になりました。そのように住民税非課税世帯なりになんとかなっていたとはいえ、やはり大学院を出て非常勤講師になってからが大変でした。私の話はシングル子なし・女性・ロスジェネ・高学歴ワーキングプアの現実ですが、同じ非正規雇用の労働者でも結婚している人はまったく違う状況にあります。婚姻制度は、経済的困窮を免れる税制・社会保障面の仕組みを伴っており、夫にしても妻にしても、制度上の実利を得ています。

 

私の場合は学位を取って3年後に学振PDに採用され、その間は経済的には助かったのですが、事情で生活を切り詰めていました。そして、学振研究員として社会保険に加入させてもらえるわけではなかったので、PD期間が終了した年に社会福祉士の資格取得のため養成校に入学した際、学費支援制度となる専門実践教育訓練給付金制度が利用できず、満額支払うことになりました。引き続き非正規雇用となり生活が厳しかったため、県の社会福祉協議会の修学資金の貸付を利用したので、またも返還の必要な奨学金が増えたといったところです。

 

もし、子どもが産まれでもすれば、直近で社会保険に入っていなければ出産手当金も育児休業給付金ももらえません(最近の報道によれば、非正規で働く人に対する出産後給付の制度を創設するとのこと。少額であっても大きな変化です)。社会保険(健康保険+雇用保険)に入っていれば受給できる、総額で数百万円に至る可能性のある金額が、まったく受け取れないのです。

 

なにより、厚生年金に加入できないことは、将来の不安へとつながります。私の場合は新卒で就職した会社を退職して以降、社会保険に約17年間入れていなかったので、大変不安定な未来が到来するのです。このことに院生時代は無自覚でした。そこで、学振PDが終わった年の4月から、大学非常勤講師の仕事を減らしダブルワークをすることにして、社会保険に加入できる週3日のパート労働を民間企業で始めました。翌年、非常勤講師は週1日に制限し、もう一方はフルタイムのNPOの仕事に転職しました。

 

体力が続くか不安はありましたが、実際かなりきつかったです。学期中は週6日働いているので、研究の時間は取れません。本末転倒かと言われれば、必ずしもそうではなく、ジェンダー問題も多少関わってくる福祉行政の仕事であったため、自分の関心のある領域で参与観察できる面もありました。大学の公募に応募する上で多少は信頼してもらえそうな経歴にもなったので、働かざるを得ない以上、ただひたすら忙しいのはもう仕方がないという状況でした。それでも、論文執筆時間が確保できず、迷惑をかけたりもしていて限界は限界です。

 

院生の時から社会保険に加入できる条件のバイトをしていればよかったと、後になって思いました。大学図書館バイトやTAなどが学内バイトの定番ですが、私は自分が最近社会福祉士になったため、相談援助業務を経験しておくべきだったと思えてなりません。「実務経験あり」と認められれば、養成校在籍中にカリキュラム上の実習が免除されるのです。ただ、フルタイムの3/4ほどの時間従事している必要があり、院生も忙しいのでその条件をクリアするのは難しい可能性が高いですが。

 

あるいは、相談援助業務に従事する時間が少なくても、公認心理師に関しては、昨年までは現任者ルートでの受験資格を得ることができました。そのチャンスを逃してしまったのは悔やまれます。公認心理師は臨床心理士に並ぶ専門職として、パートでも高時給の仕事にありつけます。研究活動の時間を確保しやすいのではないでしょうか。

 

以上とはまた別の重要な検討事項が、個人事業主として白色/青色申告をするかどうかです。大学非常勤講師が個人事業主として認められるかどうかは、見解の分かれるところです。非常勤講師は、「給与」として対価が支払われることがほとんどであると思われます。給与所得がメインの収入であり続ければ、講演や原稿料等で得られる収入を「事業所得」として申告することが認められにくくなります。研究室がないため自宅を仕事場にしているのに、家賃の何割かを経費扱いにすることができなかったり、書籍代や学会費等の研究費を経費扱いにすることができなかったりするのは、一般的なフリーランスの人が白色/青色申告によって節税できている状況と比べてあまりに不均衡で損失が大きく、また損益通算も認められないとなれば、無慈悲なことです。大学非常勤講師は研究者であり、給与所得控除はもちろん、特定支出控除でもまかないきれない出費がかなりあるのです。

 

暫定的な結論としては、大学非常勤講師の傍ら、何か自営業をするのが損益通算できていちばん所得を低く見なすことができ、なんなら個人事業を法人化して厚生年金に入ることで将来の不安を軽減できればかなりよいのではないかということです。法人化までする労力を割くなら、その前に本気で研究に打ち込めと言われそうですが。

 

 

『現代思想』202212月号の特集は「就職氷河期世代/ロスジェネの現在」でした。大学非常勤講師の方々がどう読まれたか、大変興味あります。

 

第18回 堤 圭史郎(2023/03 通信NO.51)

こないだボサッとネットサーフィンしている際に、岸谷五朗さんへのインタビュー記事を読んだ。若い頃に買った愛車を20年以上も乗り続けたのだそうだ。大いに気に入ったからという理由もあったが、「芝居をやる代償として」、「演劇を続けるために」、「車好き」であることをやめたのだそうだ。

 

私にも少しだけ思い当たることがある。大学院に入り、それまでCDやマンガに費やしていた金を、(ようわからんままに)高価な学術書を買うのに費やすようになった。パチスロはやめられなかった。M1が終わるくらいに、人より遅れて採択された利子付奨学金(その名も「きぼう21」)がまとめて振り込まれたのだが、かなりの額を蕩尽してしまった。情けない話である。それでも大勝ちした際には「今のうちだ」と、このエッセイのバトンを渡してくれた妻木くんと、いまはもうない、天王寺の書店やミナミの古書店に向かい、欲しい本を買っていた。

 

そのためか、2000年代のヒットチャートや人気マンガが全くわからない。年末年始に入院して、病床で年末の歌番組をボサッと見ていて、記憶の欠片もないことを確信した。マンガだってずっと『近代麻雀』しか読んでこなかったのだから。それもこれも「学問をやる代償として」、「大学院生を続けるために」、仕方のないことだったのだろうとは思うものの、年末に病床でひとり、少しだけ寂しくなったのであった。

 

そんなことで、なんで寂しく感じ考え込む必要があるのか。地方の小さな公立大学でおっさんになった私は、ご多分にもれず学内外のマルチタスクに追われるまま年月を過ごしてしまい、「今年こそは単著を出すぞ……!」とか言っているうちに、あれよあれよと今に至ってしまった。ボサッとだってしてしまう。小規模大学特有の業務の無限定性により、「大学人」としてはある意味で大いに成長させてもらったとは思うものの、積み残してきた大切なことはあまりに多い。上の世代をみていてある程度予想はしていたものの、実際に経験してみると、諸先輩方がこんな中で業績を残してきたことに、ただただ敬服するばかりである。

 

こんなはずだったのだろうか。疲れ切って腰の治療のために入った近所の整骨院で、『バクマン。』というマンガに出会った。私にとって空白の時期に連載されていたマンガだ。それは中学生にして週刊少年ジャンプで一番の漫画家になる夢をもつ男の子と、声優になる夢を追いかける女の子が、お互いが相思相愛なのに、自分たちの夢を実現するまでの間は全く会わずにそれぞれが努力を続け、夢が実現できたら結婚しようと誓い合うというまくらから始まる物語だった。借りて帰り、貪るように一気に読んだ。

 

詳細は書くまい。このエッセイを読んで何かしら心当たりを感じた方は、読んでみてほしい。私を含めこの業界の方々は、第1巻を読んだだけでそのジェンダー表現には批判をぶつけたくなるだろうが、読んでみてほしい(その不愉快さについては最後まで完全には解消されないかもしれないが)。疲れ切ったおっさんが、期末レポートの採点をそっちのけで、出来はともかくなんとか論文を一本書き切れたのは、『バクマン。』のおかげだ。ありがとう。資本主義のイデオロギー批判を各所で散々してきたというのに、まさかこんなおっさんになってから「友情・努力・勝利」にスコーンと心撃たれる日が来るなんて。今だから言えることなのかもしれないが、こんな社会学徒がいても許されるだろう。許してくれ。きっとこれは、遠い過去からの贈り物なのだ。

 

あ、そうそう。きぼう21はたっぷりと利子も支払って、あともう少しで返済を終わらせられると思います。無事ならば……明日はどっちだ!!

 

第19回 前田 拓也(2023/04 通信NO.52)

四十肩、であります。事実わたしも四十なかばでありますので、はい、たしかに妥当ではあります。

 

整形外科をたずねてみてはじめて知ったことなのだが、どうやら五十肩というのもあるようで、ではそれとこれとはどう違うのか、五十肩のほうがなんだか重篤そうじゃありませんか、と思いもするが、「患者」の年齢次第で呼びかたが違うだけであり、肩関節なんとか炎とかいう「診断名」のある、要するに「おなじもの」なのだという。なんだそれは。

 

そんなこともあって、いわゆる「同業者」というか、わたしと近い領域で研究や仕事をしているひとに会うたび、あいさつ代わりとばかりに最近四十肩で肩が上がらねえのなんの、痛くってどうも、との旨伝えると、あるある、あるよあるよ自分もやったよ、と共感してくれつつ、医者へかかれだの鍼がいいだのこういうストレッチがいいだのどれもこれも気休めだよほっときゃ治るよだのいろいろとアドバイスをくれる。ありがたい、と同時にしかし、みんな案外素朴にリハビリテーションを推してくるんだなと、苦笑したりもするのだった。

 

わたしの専門は、障害者のあたりまえの暮らしがどのようにして成り立っているのかを、障害者と健常者の関係性のなかから社会学的に明らかにすることだと言ってよいが、そうした、障害学とか「ケア」の社会学とかいったものをやっている自分のようなひとや障害者運動にかかわるひとの少なからぬ部分は、一定程度「リハビリテーション」を敵視、と言って悪ければ、批判的なまなざしを送っているところがある。とくに障害学は、「障害」を個人の身体の問題として個人化/医療化するのではなく、社会的な「障壁」の生み出す不利益として捉えよと主張してきた。だから、障害をもつ「個人」に働きかけて問題を解決しようとする実践および知識としてのリハビリテーションに、どうしても批判的になるのだった(だからこそ、作業療法士でありながら障害学をやっている田島明子さんの一連の仕事の重要性があったりもするのだが)。

 

だから、こうしたある種素朴なアドバイスが同業者たちの口から出てくるというのは、意外と言えば意外ではある。

 

とはいえ、痛いものは痛いのだし、肩が上がらないのはつらい。だから治したい、苦痛は取り除きたい、できないよりはできるほうがよい、そういうものでしょう、それが自然な反応でしょうと言えば、たしかにそれでおしまいではある。けれど、そう望むことが、素朴にリハビリテーションを称揚し、個人モデルの側につくことになる、のかもしれない。いやそんなことはないだろう、それとこれは違うだろう、と言いたくもなるのだが、そこに矛盾はたしかにあるように思う。それを認めないわけにはいかない。とすればどう考えればよいか。解きほぐそうとすれば、ここから長い長い道のりが始まる。

 

同様に、近ごろは同年代の友人と会えば、最近小さい字が見えにくくなってきましてなあ、スマホ見るのも難儀しまんねん、固有名詞が出てきまへんねん、などと愚痴りつつトホホと笑い合うことも増えた。「諸先輩」方には、だれもが通る道よ、と苦笑されるのだろうが、自分たちとしてはどこか、「からだの不調を訴える中高年」のパロディをやっているようなところもあっておもしろい。そんな40代である。これまであたりまえのようにできていたことが「できなくなりつつある身体」を抱えた自己が、上記のような「矛盾」を具体的にどのように生きることになるのか。そしてどのように言語化できるのか。そこになにか、「これから」のヒントがあるような気がしている。

 

第20回 井手 靖子(2023/05 通信NO.53)

私は猫にまみれて生活している。これは比喩的表現ではない。我が家には7匹(昨年まで9匹)の猫がいる。猫カフェ状態である。我が家の猫はすべて保護猫で、多くが里親を探しても貰い手のつかなかった猫たちである。引っ越しの際に置き去りにされた兄弟猫や多頭飼育崩壊でやってきた姉妹猫、猫風邪をひいて瀕死の状態を保護した猫、などなど。

 

我が家の猫たちはわりと平和に暮らしている。特に大きなけんかをすることもなくのんびりと暮らしている。時々、雄猫が雌猫から怒られたりはしているが、これは仕方ない。往々にして雄は無神経だからだ(失礼)。言い換えればおおらか。だからこそ、雄は可愛い。

 

ここまで読んで既にお分かりだと思うが、私の猫に対する「愛」は半端ない。猫を愛すれば愛するほど、人間が嫌になる。なぜ人間はわが子を虐待することができるのか。なぜ人間は自分と違う人間を区別(差別)しようとするのか。なぜ人間は必要以上に他者を傷つけるのか。なぜ人間は必要以上に権力を欲するのか。なぜ人間は必要以上に欲求を抑えられないのか、なぜ人間は快楽のために生き物を虐待するのか。なぜ?私にとって人間の社会は不可解なことだらけである。だからこそ、私は「社会学」という学問を通して人間社会を知ろうとしている。これが私の学問の原点なのかもしれない。

 

私は幼いころから常に動物と暮らしてきた。犬、ニワトリ、ハムスター、魚、鳥などなど。けれども猫と暮らしたことはなかった。私の親が猫に対して偏見を持っており、「猫は祟る」と本気で思っていたからだ。しかし両親が他界し、晴れて私は猫と暮らすことが可能となった。

 

私はこれまで犬と暮らした経験はあっても猫と暮らしたことがなかったので、最初は猫と暮らすことの不安は多々あった。「猫は気に入らないフードは餓死してでも食べない」「猫はなつかない」「猫は引っ掻く」「家具を傷つけたり、物を壊したりする」。しかし、一緒に暮らしてみて、その多くは単なる言説だと知った。確かにフードの好き嫌いはあってもお腹が空けば食べてくれる。うちの猫たちはベタベタに甘えてくれるし、名前を呼べば出てくる。時には違う名前でも走ってくるし、ストーカーのように私が行く先々についてくる。部屋中のあちらこちらに猫の爪とぎを置いているので、家具や壁で爪とぎをすることはほとんどなく、家具は傷ついていない。テーブルの上に置いてあるペンやお菓子を手で「チョイチョイ」としながら落としたりはするが、物を壊すことはほとんどない(しかし、一度だけ何を思ったのか、突然ブラックアウトしているテレビに突進してテレビを破壊した猫がいる。テレビの買い替えが必要だったから、これは痛かった。ただ、突進した猫は無事だったので良しとしている)。もちろん、今のところ祟られてはいない(と思う)。

 

今にして思うと、私は犬との生活より猫との生活が性分に合っているようだ。私は完全に猫の下僕と化している。猫のために働き、「猫のごはん」を用意した後「人間の餌」を作り、猫がソファやベッドで寝ていれば、「すみません」と言いながら空いているスペースに座ったり寝たりしている。

個人的には「飼う」という言い方も好きではない。「飼う」という言葉には「ペット」と「主人」という主従の関係がある。犬の場合は主従関係を明確にしなければ躾ができず、手に負えなくなる可能性があるだろう。けれども猫の場合は必ずしも人間が「主」ではない(現に我が家では猫が「主」である)。

 

かつては犬や猫は「ペット」として扱われ、犬は外で、猫も家と外を行き来する飼い方が主流であったが、現在においては犬も猫も室内での完全飼育が当然視されるようになった。犬の場合、外飼いで鎖につないだままにしていれば「動物虐待」として保護団体が乗り出してきたり、時には警察に通報されたりする。猫は不妊・去勢をしたうえで完全室内飼育が求められる。これは、犬も猫も安全で安心できる環境で生活させるべきという考えであり、犬や猫が単なる「ペット」ではなく「家族」の一員として共に暮らすことが求められてからである。そう、犬や猫は「家族」なのだ。これは、社会環境や労働環境、はたまた結婚観や家族観、高齢化、少子化、等々さまざまな社会の変容に応じてのことだろう。

現在では、犬の飼育数より猫の飼育数のほうが上回っている。その理由として、未婚の単身者の増加、あるいは高齢単身者の増加により、散歩の必要な犬より、単身者には猫のほうが向いているということのようだ。

 

かつては犬や猫は命あっても「ペット」だった。ところが、現在では人間と同じ「生き物」として尊重すべきとする考えを持つ人たちも多くいる。「人権」と同じく「犬権」や「猫権」を尊重し、「人生」と同じく「犬生」「猫生」があり、同じ命として尊重する。私は、決して人間だけがこの世の中で生きているわけではないし、人間だけが偉いわけではない、と思う。人間は、地球上の生き物の一部でしかなく、犬猫に限らずすべての生き物が尊重される世の中になればいいと思っている。そのうえで、現在犬や猫を守ることができるのは人間であり、その意味で私は猫の下僕として猫たちを守っていきたい。

本来であれば自分の研究について語らなければならないのかもしれないが、ともかく私の猫に対する愛の深さを訴えさせてもらった。なぜなら、我が家の猫たちにどんなに私の愛を語っても知らんふりされるからだ。最後に、もし生まれ変わりがあるとすれば、私は飼い猫に生まれ変わりたい。

 

第21回 田中 みわ子(2023/06 通信NO.54)

「ヤッチキ」という踊りが、いわきにはあるらしい。

「あるらしい」というのも、私はその踊りを見たことがない。私の勤務先はいわきにあり、「じゃんがら」と呼ばれる念仏踊りは見聞きしたことがあるけれども、「ヤッチキ」はこれまで一度もなかった。

 

「ヤッチキ」という踊りがあると知ったのは、大学のゼミにゲストスピーカーとして江尻浩二郎氏(詳細はこちらhttps://wotikoti.jimdosite.com/)をお呼びして、いわき市における地域包括ケアの取組み”igoku”について講演いただいたことがきっかけである。いわきの伝承芸能であり、福島県の重要無形民俗文化財でもあるというが、なんと地元いわきでもほとんど知られていないようである。確かに、地元出身の学生たちに聞いてみても知らないと言う。

 

「ヤッチキ」は、産炭地であるいわきで炭鉱夫たちが踊っていた踊りが、いわきの各地に広まり、ある時期には盛んに踊られていたが、次第に影を潜めた。7拍子のリズムにあわせて、腰を突き出し、右手と右足、左手と左足を同時に出すナンバの身振りを特徴とする。その唄も所作も、あまりにも「卑猥」であるそうだ。ちなみに残念ながら(いや幸いにというべきか)、私はその歌詞をまったく聞き取れなかった(恐らく聞き取れても、意味が分からなかった)。ヤッチキについての詳細は、江尻氏やigokuのウェブサイト(https://igoku.jp/)に詳しいので、興味のある方はぜひそちらをお読みいただきたい。

 

江尻氏は、途絶えかけている「ヤッチキ」がどんな踊りであったのかを記録に残そうと、今はもう高齢となった方々のお宅を訪ねて回ったそうだ。そうして記録された映像の一場面。要介護認定を受けてほぼ「動けない/動かない」という高齢女性が、ヤッチキの音源が流れると、ふっと椅子から立ち上がってヤッチキを軽やかに踊りはじめた。

 

これは「奇跡」といえば奇跡である。もちろん身体は老い、衰え、忘れていく。昔の記憶が蘇っただけなのかもしれない。身体はその唄も所作も、記憶として深く刻み込んでいるというだけなのかもしれない。――だがそこに、身体が何かから解き放たれたような、眠りから目覚めた時のようなある種の自由さを感じ、(私の)目頭が熱くなったのも事実である。この事実は一体何なのか。

 

そしてもう1つ。江尻氏は時折、介護施設の職員から「入所している○○さんの話し相手になってほしい」と呼び出されるという。普段はどんなに話しかけても「あまり(全然)しゃべらない」人が、江尻氏とは「話す」というのである。江尻氏とは話が弾むということなのであろう。炭鉱の話も家族の話も、いわきで過ごしてきた日々の生活から紡がれていく。その土地に生きる人の語りには、その土地で生きてきたその人自身の歴史、時間の厚みが背景にある。

 

そう、会話は相手によって変わる。ただそれだけのことかもしれない。専門職やインタビュアーである調査者にとっては、身に沁みて分かることでもある。どんなに言葉にしても、それが相手にまったく共有されなければ、きっと言葉を閉ざしてしまう。逆に、なんとなくでも「通じ合えた」と思う瞬間は、摩訶不思議である。

 

「ヤッチキ」と江尻氏の話になってしまったが、私にとっては久々に心が揺さぶられる出来事であった。それからしばらくたった今も、語りを聞く人の佇まいについて考えさせられている。と当時に、悩ましいことに、その時の感激(うまく表現できない「ざわめき」)からなかなか抜け出せないでいる。