エッセイ


第1回 坂本真司(2021/09 通信No.33)

レヴィ=ストロースは、マルクスの本を適当に開き、数ページ読んでから原稿に向かった。そんなことをかつて内田樹さんのブログで知りました。マルクスの文章でスイッチがはいる、ということなんでしょうね。

 

私は時々、ある本の表紙を眺めてエンジンをかけます。J.C.スコットのThe Moral Economy of the Peasant。ペーパーバック版ですが、ハードカバー版と同デザインのもの(古い方?)です。一見どうってことない表紙です。稲穂のイラストがあります。ですがそれは黒で描かれていて、あんまり実り豊かに映らない。タイトル文字は赤、血の色です。

 

この表紙を見ると、バングラデシュの田んぼ、藁の山を思い浮かべます。夕方です。藁の匂いが心地よいです。すると、「こんなところまで来ちゃった。ここまで来ちゃったから、投げ出さないで頑張ろっか」って気持ちになります。軽トラ並みの小さなエンジンがかかり、ゆっくり回りだします。

 

時々のご縁の連続で、研究者の端くれを続けてこれました。自分で切り開くというより、人から誘われ、乞われ、求められるのに応じながら、今に至ります。研究所も、10年前に石岡さん(面識なかったんです)から、今はなきアジア社会学研究会のお誘いをもらい、フラフラやってきたのが最初です。皆さんは、動研との出会いはどんな風でしたか。

第02回 中筋直哉(2021/10 通信No.34)

2021年の東京オリンピック閉幕の折小熊英二氏が朝日新聞に寄稿した記事を見て、おやっと思った(朝日新聞8月10日朝刊)。冒頭彼は宣言する。この事実を歴史的に考えたい、と。「歴史的に考える」とは何だろう。

 

小熊氏にとって、1964年の東京オリンピックと対比したり重ね合わせたりするのが「歴史的に考える」ことのようだ。それぞれの経過だけでなく背景となる経緯も含めて考察していく手さばきは、歴史社会学の第一人者の面目躍如たるものだ。しかし、私が触発されたのは小熊氏の考察そのものではなく、「歴史的に考える」という思考の意味である。マルクス主義者ではない私たちは、一般論としても社会学としてもつねに「歴史的に考え」なくてもよい。でも、何かに導かれるように「歴史的に考え」てしまうことはないだろうか。

 

最近2013年のドイツ映画『帰ってきたヒトラー』(ダーヴィト・ヴネント監督、原題は『彼が帰ってきた』)を見た。ベストセラー小説の映画化で、突然現代に蘇った総統が再びドイツ人たちの支持を集めていく物語である。実物より恰幅のよい俳優が演じる総統は生前そのままの身ぶりと言葉で現代のドイツ人たちを魅了していく。私は、この映画を見たドイツ人たちは、映像の中のドイツ人たちと一緒に自分たちの現在を「歴史的に考え」ざるを得ない状況に追い込まれるのではないだろうか、と考えた。私たちの内なる総統、ではなく総統につながる私たちの言葉と感情について。そしてそのつながりを断ち切っていく方法について。

 

「歴史的に考え」させられたテクストをもう1つ思い出した。最近完結した『ペリリュー・楽園のゲルニカ』(武田一義、白泉社)というマンガである(最初の方しか読んでいません)。マスコット人形風の日本兵たちが史実通り凄惨に玉砕していくさまが細密に描かれる。しかし日本兵たちの心理は、かつての戦争映画や水木しげるのマンガが描いたようにではなく、現代の若者たちのそれのように描かれている。それを読む私もまた私たちの現在を「歴史的に考え」ざるを得ない。私たちの内なる日本兵、ではなく日本兵につながる私たちの言葉と感情について。そしてそのつながりを断ち切っていく方法について。

 

「歴史的に考える」ことが底の知れない厄介な(ウンハイムリッヒな)作業であることは確かだろう。これ以上深掘りできる自信はないが、折に触れて挑戦していきたい。

第03回 朴沙羅(2021/11 通信No.35)

ヘルシンキ大学で教えることになってから1年半ほど経ちました。あらゆることの違うに驚く日々が続きますが、そのうちの1つは、こちらにいると自分がひどく年寄りになったように感じることです。2020年にフィンランドの全人口に占める65歳以上の割合は22.5%(World Bank発表)で、日本の28.4%(同発表)とそれほど大きく変わるわけではありませんが、ニュースや新聞で見かける人々が20代後半から30代と、私と同世代かもっと若い方が多いように感じるからでしょう。2019年に社民党のサンナ・マリンが首相になったときは世界で最も若い首相が誕生したと言われましたが、2021年9月現在、副首相のアンニカ ・サーリッコ(中央党)は38歳、内務大臣マリア・オヒサロ(緑の党)は36歳、教育大臣リー・アンダーソン(左派連合)と科学文化大臣のアンッティ・クルヴィネン(中央党)は35歳と、閣僚のおおよそ半数は30代です。先日、フィンランドでは初めて難民のバックグラウンドを持つ国会議員スルダーン・サイード・アフメド(左派連合)が誕生しましたが、彼は1993年生まれです。

 

おそらく、社民党や緑の党、左派連合や中央党と言った中道から左派の諸政党が、若い世代を取り込む仕組みを持ちうまく運用しているということなのだろうと思うのですが、何も調べていないので揣摩憶測に過ぎません。そのうち、どこかの政党のリクルーティングの内情を調査してみたいものですが、その前にフィンランド語を身につけないと何もできません。また将来の自分に宿題を出してしまった、と思いつつ、私にとっては毎日が不思議の国のフィールドワークです。

第04回 粟谷佳司(2021/12 通信No.36)

私のこの10年の研究テーマは、鶴見俊輔の大衆文化に関する思想と関西フォークソング運動を歴史・文化社会学の観点から考察するというものである。今回は、関西フォークソング運動について述べたい。

 

1960年代後半の日本においてフォークソングを運動として捉えていたのが詩人の片桐ユズルの活動だった。片桐の活動から見えてくるのが、素人の活動と市民運動に関わる表現の問題である。片桐はフォークソングについて記述するときに、鶴見俊輔の限界芸術論を始めマーシャル・マクルーハンらの議論を応用しながらフォークソングを捉えているのである。ここから浮かび上がるのが、鶴見の議論からはフォークソングが素人が行う音楽活動であるということであり、そしてマクルーハンの議論についてはメディアとライブ演奏の関係に応用されているのである。ここで片桐は、マクルーハンを応用しながらレコードやラジオがホットなメディアであるということから、フォークソング運動における街頭の演奏をクールであると述べ、街頭で歌われること、すなわち新宿駅西口広場における東京フォーク・ゲリラの活動に見られる歌うことによる通行人の参加をどう捉えるのかということが言及されているのであった。あるいは、片桐は別のところでもフォーク・ゲリラの替え歌の戦略から歌における歌詞の問題について考察しており、替え歌をフォークソング運動の特徴の一つと捉えていたのである。

 

また、片桐が著したフォークソング運動の歴史についての論考や、片桐が関わっていた雑誌(『フォーク・リポート』など)やミニコミ(『かわら版』)、市民運動関係(『ベ平連ニュース』など)の資料と、フォーク歌手の演奏の音源などの分析から、フォークソング運動が複合的なメディアや実践によって構成された領域であることも分かった。現在は、フォークソング運動の総体的な理解のためにさらに研究を進めている。

 

そして、このような運動の領域について、社会学者のハワード・S・ベッカーのいう「アート・ワールド」論を応用して分析を行っている。研究では、ベッカーを中心にシンボリック相互作用論や社会的世界論の議論から、運動に関係するひとびとの連携した行為によって構築された空間をどのように捉えるのかということを課題としている。また、片桐をキー・パーソンとして、その活動がフォークソングの運動に言説と実践において重要な役割を果たしていたということを明らかにする研究を行っている。考えてみれば、すでに最初に刊行した著書(『音楽空間の社会学』青弓社、2008年)の研究においても、震災復興における音楽の空間が関係するひとびとの連携した行為からいかに構築されていたのかということがテーマだった。

 

これからは、理論的な研究と文献・資料の分析をさらに進めて、フォークソング運動という空間がいかに社会学の方法から捉えられるかを研究していきたいと考えている。

第05回 丸山里美(2022/01 通信No.37)

12月のはじめ、元野宿者の女性から電話があった。彼女は、タマコさんとして拙著『女性ホームレスとして生きる〈増補新装版〉2021年』に登場する女性で、現在55歳。私が大学院生だった2000年代前半、東京の公園で野宿生活をしているときに知り合ったのだった。彼女のテントに泊めてもらったこともある。そしてその後20年近くが経つ現在まで交流を続けてきた。

 

タマコさんには軽度の知的障害がある。そのため両親は彼女の生活にさまざまに干渉し、それを窮屈に感じたタマコさんは20代から家出を繰り返すようになった。そしてその最中に知り合った男性と、野宿生活をすることになったのだった。その男性は、覚せい剤使用の罪で何度も刑務所に入ったことがある元やくざだったが、親分肌の彼は、25歳以上年下のタマコさんの保護者のようでもあり、二人はいい組み合わせだった。

 

3年ほど野宿生活を続けた後、2人は生活保護を受給し、古いアパートで暮らすようになった。ミシミシいう急な階段をあがった先にあるその部屋は、6畳1間に3畳ほどのキッチンとお風呂がついている。そこで2人は、病気で体調を崩すこともあったが、毎日散歩を欠かさず、15年ほど穏やかな暮らしを続けていた。

 

80代になった夫は入退院を繰り返すようになり、昨年11月に入院した際に、もう先は長くなく、家には戻れないだろうと告げられた。コロナ禍で面会はできず、もう会うこともできないとタマコさんはいう。残された彼女が一人暮らしをしていくことは難しいとケースワーカーは判断し、タマコさんは東京近郊にある80代の両親が暮らす実家に、30年ぶりに帰ることになった。必要なものをダンボール1箱に詰め、家の処理はケースワーカーに任せて、彼女は1人で家をあとにした。

 

実家に戻ったタマコさんは、高齢の両親に申し訳なくて居づらい、一人暮らしはできないと周囲がいうので、あとは施設に入るしかないという。ケースワーカーに早く施設を探してほしいと伝えているというが、両親の元で生活保護はいったん打ち切りになった彼女の行く先が、すぐに見つかる可能性は低いように思われた。両親が亡くなったりすれば、そのときはまた福祉事務所に相談してほしいということだろう。

 

そう考えれば、タマコさんと夫が2人して、つつましやかでも支え合って過ごしてきたアパートでの15年間は、支援制度としてはなんと安上がりだっただろうと思う。タマコさんのこれからが穏やかなものであることを、ただ願うばかりである。

第06回 室田大樹(2022/02 通信No.38)

炊き出しで人民の飯を作るか、家で家族の飯を作るか。

 

公園で野宿のおっちゃんと語らうか、子どもと砂場でお山を作るのか。

 

――3年前に上の子(2歳)が産まれてから、越冬闘争を含めてすっかり現場から足が遠のいてしまった。寒空の下に段ボールでロケットを作り、薄っぺらな毛布を何重にも重ねて眠る人々の存在が時々頭をよぎる。しかしそれは文字通り時々のことでしかなく、下の子(0歳)のおっぱいを求める泣き声や、つられて目覚める上の子の「水飲む」「布団かけて」といった要求で深夜に起こされはするものの、天気の心配なく暖かい寝床で眠る毎日が続いている。時間のやりくりがうまくいかず、というより絶対的に自分の時間が少なくなってしまった現状において、仕事とちょっとした息抜き以外の自分時間を作るのが大変難しい。「仕事行ってきます」というふうに、連れ合いに育児や家事をお願いすれば簡単なことなのだけれども、フェミニストとしては後ろめたさが湧いてきて仕方がない。社会運動に参加することや野宿者支援に参加することの社会的意義を高らかに語ることは簡単だが、それが連れ合いの負担を増やしたり、自分時間を減らしたりすることによってしか成り立たないのだとしたら、足元の正義が揺らいでしまっている。

 

野宿者の支援か、子どものケアかという二択(ある程度の自分時間を確保することはお許しいただきたい)に追い込まれてしまっているが、もっと制度がしっかりしてくれていればと率直に感じる。制度的な支援がほしいと思って気づかされたことがある。制度が整っているとは、個々のニーズにあったきめ細かな制度の有無のみを指すのではなく、制度を必要としている人々が“自ら助けてと声を上げずとも”適切な制度につながることができることを指すのだろう。当事者が支援につながるまでのハードルの高さについて分かっていたつもりだったが、誰にどのように声を上げればいいのか、他の人たちはがんばっているではないか、この程度の困りごとで助けてと言っていいのか(と自問自答して結局何とかなるだろうと日々やり過ごしていく)、制度に乗るには何かをあきらめなければならないのだろうな(例えば保育園に子を入れるには保育に欠ける事由が必要、まさに、働かざる者は預けるべからず)、という悶々とした思いが自分を動けなくする。だから、声を上げなくても無条件な制度を届けてほしいのが正直なところである。もちろん、パターナリスティックな支援や、国家によるよい人物像や家族像の押し付けはまっぴらごめんであるが。

 

かつて生活保護を受けながら野宿者支援・運動に携わっていた活動家は当時のことを次のように総括した、「俺たちの活動が行政の不作為を補っているわけだから、保護費はいわば給料だな」。「今日はオリンピックに反対するデモがありまして」「でしたら本日の保育料は無料です、私の分まで声をあげてきてくださいね!」「ありがとうございます。たしか来月、厚労省前で保育士の待遇改善行動ですよね?我が家も家族で参加します」くらいの社会になってくれないだろうか。

第07回 結城翼 (2022/03 通信No.39)

コロナ禍の中で感じた山谷の「しぶとさ」

 

筆者が三大寄せ場の一つと言われている山谷地域に始めて足を運んだのは2013年の秋で、今に至るまで野宿者運動に関わってきている。当時、すでに山谷から仕事に行く人はほとんどいない状態で、誰かに「山谷はもう日雇労働者の街じゃない」とも言われた。確かに、今や日雇労働で生計を立てている人は少数派になっている。しかし、多くの変化を経験しながらも「山谷」という街は未だに存続している。少なくともこの名前は現在も意味のある地名として一部の人びとの生活の中にリアリティをもって存在している。

 

2000年代以降、山谷は「福祉の街」化したと言われ、最近ではドヤに住む人の9割以上は生活保護利用者になっている。その後、コロナ禍が始まる前まで山谷はさらに別の方向で変化していた。第1に、一部のドヤはバックパッカーやビジネス客向けに改装されたり、新設されてきた。観光地にも都心にもアクセスがよい立地ならではだろう。台東区も改装・改築の助成制度を設立しこの流れを促進しようとしてきた。第2に、都心での再開発と「都心回帰」の波に乗じて山谷でもマンションが相次いで建設されていき、山谷の地名すら知らないであろう人々が移り住み始めてきた。いわゆる「ジェントリフィケーション」が進展する中で、このままでは生活保護利用者も野宿者も住む場所を徐々に失っていくのではないかと懸念する人もいる。

 

他方で、筆者がコロナ禍の中で改めて感じたのは山谷という街の「しぶとさ(robustness)」のようなものである。マンション建設が中断ないし延期され、バックパッカー向けのドヤが倒産したりする一方で、生活保護利用者を受け入れているドヤは引き続き宿のない人々にとっての寄る辺として機能しており、城北労働・福祉センターの運用やワクチン接種などをめぐって、野宿者運動はここ数年で例を見ないほど活発に展開している。これは、一面では地域に根差した地道な支援活動や社会運動が行われてきたことの反映であろうし、また他面ではこの街を離れることが出来る者とそうでない者の格差の現れの一つとも言えるかもしれない。いずれにせよ、コロナ禍の中で山谷の都市下層の街としての側面の頑強さが示されているのではないかと感じている。

 

もちろん、コロナ禍がいつ収束するにしても、再開発の波は途絶えるわけではないだろう。実際、筆者が関わっている現場では周辺に続々とマンションが建っていき、立ち退きの圧力(displacement pressure)を感じている野宿者もいる。今後、野宿者や生活保護利用者の生活により実際的な影響が及ぶことも予想される。楽観視などできないが、ある種の「しぶとさ」を持つ「山谷」が今後どのように内外の変化と折り合いをつけていくのか、筆者は引き続き現場から見ていきたいと考えている。

第08回 山北輝裕(2022/04 通信No.40)

コロナ禍以前は、ホームレス状態を経験した方達へのインタビューを重ねていました。アパートに移られてから、どのような生活をおくられているのか、お話を聞かせてもらったりしていました。コロナ禍になってから、「基礎疾患がある人たちばかりだしな・・・うつしたらシャレにならんな・・・」などと思いつつ、校務やら授業づくりやらの言い訳もあり結局まるまる2年ほどインタビューは自粛しました。振り返れば、世のサプライチェーンのように「途切れたなぁ」と、ぼう然としていますが、かといって、積極的に「現場」に行ったのかといえば、ホームレス状態の方たちに対するワクチン接種状況を支援団体が調べた「ワクチンアンケート」に協力したくらいしかなく、「焦り」や「うしろめたさ」がなかったかといえば嘘になりますが、ともかく、このエッセイを書いている春休み、ふと久しぶりにインタビューの再開とまではいわないにしろ、途絶えた人と再会したいと思い立ち、電話をしてみました。その方は58歳で、いまは地方のグループホームで暮らされているのですが、電話先の声ははつらつとしていて、ずいぶんお元気そうでした。お会いしてコロナ禍での不義理を謝るとともに再会を喜び合いました。以前お話を聞かせてらもったことを将来的に原稿にしたい旨を伝えていたときでした。「教授もいちどは野宿したり、ここ(グループホーム)で生活してみたりしてからじゃないと。そこからだよ書くのは」と、そんな感じの台詞を投げかけられました。「あはは」と苦笑いしたり、かつてはそんなことをしたりもしましたと言ってみたり、もういちどなぜそういったことを書くのかフガフガと必死で伝えてみたり。最終的には「(自分のことが本になるなんて)嬉しいやら恥ずかしいやら」「教授が一生懸命考えたんだったらね、書いたらいいんじゃないの」と言ってもらえたものの・・・。クロポトキンの「若い人たちへ」の「ノー、千度でもノー」がリフレインする今日この頃です。

第09回 原口 剛(2022/05 通信No.41)

昨年、釜ヶ崎にくらす労働者・活動家のSさんに、計6回のインタビューをおこないました。Sさんがはじめて釜ヶ崎をおとずれたのは、50年前の1972年7月のこと。それ以降Sさんは、釜ヶ崎や山谷、名古屋の笹島で労働し、活動してきました。その人生と闘争史について、語っていただいたのでした。

 

なかでも感銘を受けたのは、次のエピソードです。1973年2月、船本洲治が「反入管釜ヶ崎通信」を発行しました。その文章に感銘を受けたSさんは、朝鮮語に関心を抱くようになり、あいりん総合センターのうえに建つ市営萩之茶屋住宅の一室で開催された朝鮮語学習会に加わるなどします。やがてSさんは、朝鮮労働党出版社が1968年に出版した『抗日パルチザン参加者たちの回想記』と出会いました。その翻訳の一部は、71年に未来社より『朝鮮人民の自由と解放――1930年代の抗日武装闘争の記録』として出版されていました。Sさんはこの翻訳を読んで、心をわしづかみにされたといいます。そして、原著の全12冊を手に入れて、翻訳に着手したのでした。

 

1977年1月、ドヤの狭い一室で、Sさんの翻訳作業が始まりました。「証言集」ですから、草木の名前や方言まで調べようと思えば、作業は膨大です。Sさんがひととおり翻訳を終えたのは、2000年代のことでした。それまでのあいだ、各地を流転する労働と生活のなかで、原著12巻と翻訳ノートだけは、肌身離さず持ち運んだのだといいます。手書きの文字がびっしり書かれた、数十冊の翻訳ノートを目の当たりにして、深く心を打たれました。私にとってそれらのノートは、学ぶこと、研究することの喜びを思い起こさせてくれるものでした。大学や学問の状況は先行きが暗くなるばかりですが、なにがあろうと研究することの自由と喜びだけは手放すまいと、あらためて心に誓いました。

友人たちの協力を得て、どうにかSさんの翻訳とライフヒストリーを刊行・公開する目途がたちました。今年の夏までには、お知らせできる予定です。どうぞご期待ください。

第10回 渡辺拓也(2022/06 通信No.42)

エスノグラフィーとは、きっと中身のない言葉なのだと思う。誰でも自分の作品について、エスノグラフィーを名乗ろうと思えば名乗れるし、名乗ったからといって何の意味もない。名乗った作品が大したものなら、エスノグラフィーの傑作としてもてはやされるだろうが、それはエスノグラフィーが何か良いものであることを保証するわけではない。それでも、何らかの理想を実現しようという気持ちが投影されるのがエスノグラフィーという言葉であるなら、名乗りたい人に名乗らせておくだけの価値はあるだろう。

 

その上で、自分にとってのエスノグラフィーの理想が何なのかと考えると、それは、事実をあるがままに描くことによって、社会構造や社会的なメカニズムを明らかにしてしまうような作品なのだと思う。理論や分析枠組みがあってはじめて明らかにされるような秘められた真理、操作的に導き出され発見される真理ではなく、当たり前の暮らしの中にあって、誰もが知っているのに語り得ないことを真理として語ったものがエスノグラフィーと呼ばれるものであって欲しい。記録とは真理を宿らせるための依代であり、その一つひとつに意味が溢れていても、記録そのものに意味はない。

 

同じように、ただ社会学をやっていたのでは真理にたどり着くことはできないと思う。なぜなら社会学は小手先の手段に過ぎないからだ。それでも社会学に何か真理が宿るように感じられるのだとすれば、社会学が小手先の手段としての役割を果たしているからなのかもしれない。社会学に魂が宿ることはあるかもしれないが、依代に魂があるわけではない。どのような道をたどり、どのような場所にたどり着くのかは、選べないのかもしれない。しかし、どんな権威にも、決まりごとにもとらわれずにその道を歩めるのなら、それが人間における自由なのだと言ってもいいのだと思う。

第11回 稲月 正(2022/07 通信No.43)

毎週木曜日、自主夜間中学校に通っています。この学校の母体は、1994年に何人かの仲間たちと始めた識字教室です。当初は在日朝鮮人高齢女性がほとんどでしたが、その後、貧困や障がいなど様々な事情で学校に通えなかった人たち、新来・定住外国人など、いろいろな人たちが参加するようになりました。2005年からは市の助成を受けて運営されています。

 

この学校の目的の一つは、公立の夜間中学校の開設でした。ただ、運動を進め市との交渉を続けた方々の努力はあったものの、その実現は難しいままでした。私は、この運動には側面的にしかかかわれませんでしたので、偉そうなことは何も言えません。

 

しかし、長年の全国的な運動による国の動きもあり(2016年、教育機会確保法など)、近年、公立の夜間中学校が各地で開校しています。今年4月、福岡市でも九州初の公立夜間中学「福岡きぼう中学校」が開校しました。先日の朝日新聞(2022.6.26)には、そこに70歳で入学した女性のことが載っていました。彼女は58年前、中学校には入学したものの祖母の介護で授業をちゃんと受けることができなかったとのことです。私たちの識字教室に来られていた方の中にも、きょうだいの世話をしなくてはいけなかったため(兄や弟は学校に行ったのに)、学校に通えなかった方がおられました。自主夜中で出会う多くの方は(炊き出しとは違って)女性です。

 

周知の通り、こうした社会の問題は決して過去のことではありません。昨年、聞き取りをした10代後半のシングルマザーも、精神を病む母と同居していたときは母の世話、母との関係が悪くなり姉と同居を始めた時は姉のこと自分の子の世話で中学校には行っていませんでした。その後、いろいろあってNPOが運営する生活支援付き住宅に入居し、今はアルバイトをしながら子どもを保育園に預けて、通信制の高校に通っています。「高校のことは考えてもいなかった」と話しておられました。

 

公立の夜間中学校をはじめ、さまざまな公的、制度的な支援の拡充が必要であることは言うまでもありません。制度化によって公的な責任は明確になり、運営も安定します。

 

その一方で、自主夜中など、ボランタリーな取り組みも必要です。官によって制度化されると「だれでも参加できる自由さ」は失われがちになります。「成果」を何らかの形で求められれば効率優先による排除も忍び寄ります。

 

要は、選択肢がたくさんあればいいのだと思います。北九州市教育委員会も、公立夜間中学の開設を目指し、有識者会議を設置しました。8月には基本計画案をまとめるとのことです。もし開設されるとすれば2024年頃でしょうか。その年は、私たちの識字教室・自主夜中が始まって30周年です。10周年、20周年のころと比べると高齢化が進み、参加者もずいぶんと少なくなりましたが、「何か記念になるものを残したいね」と話しているところです。