社会の動態的理論について

 

 資本が世界を編成し、帝国が世界を調整する。搾取と貧困が遍在し、排除と包摂が循環する。そのような世界がある限り、人間の野蛮と悲惨は尽きない。

 幻想が人間精神を支配する。人間を解放した近代理性が、道具となる。そして世界を肯定し、野蛮と悲惨を隠蔽する。しかし人間の生は豊穣である。人間は〈よき生〉を諦めない。そして支配の手のひらを溢れ出す。溢れた生は、支配の奸智を暴き出す。こうして、幻想世界は解体する。

 支配理性と批判理性。社会(科)学は、どちらの理性を選ぶのか。野蛮と悲惨の現実を隠蔽する理性なのか、野蛮と悲惨に抗う理性なのか。動態的理論は、後者を選ぶ。

 動態的理論は、理論的実践の理論である。それは3つの実践を行う。 

 一つ、動態的理論は、支配の意図を暴き、野蛮と悲惨の原因を究明する。そして、人間解放の条件を摸索する。そのとき動態的理論は、「社会の動態」を促す〈超越的理論〉となる。

 二つ、動態的理論は、時代の支配理論を批判する。現実が矛盾を孕めば、理論も矛盾を胎む。時代の力は大きく、肯定的理論の力も大きい。それは、矛盾を客観性と合理性の中へ回収する。動態的理論は、肯定的理論の奸智を暴く。そして批判的理論を構築する。そのとき動態的理論は、「理論の動態」を促す〈創造的理論〉となる。

 三つ、動態的理論は、現実と理論を批判する主体を批判する。主体も支配理性から自由でない。主体は、容易に奸計に囚われて、現実肯定の下僕になる。動態的理論は、そのような主体の弱さを自覚する。現実を正視すれば、人間の慄きが見える。呻きが聞こえる。慄きと呻きが、動態的理論の出発点である。そのとき動態的理論は、「主体の動態」を促す〈反省的理論〉となる。

 動態的理論は、問題意識(研究の意味)、理論(世界の説明)、実証(事実の証明)を必須の要件とする。研究が意味を喪失し、理論が矛盾を排除し、実証が瑣末に陥るとき、社会の理論は、人間の現実を見失う。野蛮と悲惨を合理化する。それに対して動態的理論は、意味と理論と事実に開かれた積極的理論である。この「開かれた」「積極的」には、5つの意味がある。

 一つ、動態的理論は、野蛮と悲惨を許さない批判的人間主義に立つ。この原点を逸れない限り、動態的理論が研究する主題に、タブーはない。

 二つ、動態的理論は、内在的批判の理論である。「内在的」には、2つの意味がある。まず、現実を内から批判し、解放の潜勢力を模索する。次に、理論を内から批判し、理論を乗り越える。

 三つ、動態的理論は、全体的認識の理論である。「全体的」には、2つの意味がある。まず、動態的理論は、普遍的理論である。社会の研究は、その断片の研究から始まる。しかし断片は、全体の端緒である。次に、動態的理論は、社会の全体的理論である。社会はつねに全体である。動態的理論は、〈全体的事実〉を追究する。

 四つ、動態的理論は、事実に基づく理論である。理論的説明は実証を不可欠とする。しかし実証は、世界を閉じた現実と見做し、事実の整合性だけを追究する事実主義ではない(閉じた合理性)。実証は、現実の矛盾を発見し、それに理論が介入するために行う。理論は現実を解体し、現実は理論を突き崩す。理論と実証は対抗しあう(開かれた合理性)。動態的理論は、その無限循環を引き受ける。
 
 五つ、動態的理論は、自省的認識の理論である。「自省的」には、2つの意味がある。まず、動態的理論は、自らの理論に自省的である。社会(科)学は、近代認識の産物である。それは、西欧男性の創作物である。動態的理論は、そのような近代科学の出自に自覚的である。ゆえにそれは、差異的で異質な理論に開かれる。次に、動態的理論は、認識する主体、つまり主体のポジションに自覚的である。動態的理論は、他者の声を聞く、代弁することの困難を知りつつ、代弁する。動態的理論は、その傲慢に自覚的である。

 認識と事実、断片と全体、批判と構成、主体と客体は、たんなる対立項ではない。動態的理論は、それらが交錯する場に身を置く。そして、野蛮と悲惨に介入し、人間解放の現実的・理論的条件を模索する。解放とはどんな状態なのか。解放へどんな方途があるのか。そこで研究はなにができるのか。動態的理論は未来を展望し、その展望をたえず更新する。